何をしようとしているのか
芸術か否かには興味が無い。ただ、新しい風景をみたいと思う。
私は、意味/無意味が発生する場から現れる眺望のことを「新しい風景」と呼ぶ。
「新しい風景」に出会うには、意味/無意味が発生する場の当事者たらんとすることによってのみ可能だ。この可能性の中にいる限り、私にとって表現が継続して行く。
大切なのは、芸術の評価ではなく、問いかけと考察の連鎖。燃焼機関のような、押しかけ、回転、突きあげを繰り返して行くさま、そのプロセスと継続に価値を感じる。
また、「新しい風景」は、事物を社会の中からすくいとり、社会の中に返して行くことの間に存在する。
それから、思考の背景として「多様性の認識と相互理解」と言うことを基調とすべく自らを戒めたい。「多様であることを知る」を支える好奇心は、違いを越えた「何か新しいこと」あるいは「新しい風景」につながって行くのだと信じつつ、私は、美術という制度の中から、あるいは、外側に身を置きながら、それらを確かめる為に時を過ごそうとしている。
方法あるいは癖などについて
メカニカルな仕組みや時間軸にともなう変化=動き、自然科学や終わりのないいとなみに惹かれる。しかし、私の表現(≒問い)は、それらを造形的に、あるいは、工学的な合理性で解決しようとは思わない。いずれも大切な方法ではあるが、どちら側にも寄りたくはない。
造形と工学を地平として立ち上がるのだが、頭部をどこにむけるかということ、例えば、僅かにずれた2枚の図像から視線のコントロールで立体視する時のように、第三の状態の所在を組み立てて行きたい。
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